一幕/007


 点検、確認、作動チェック。
 一通り全ての作業を終え、総司は汗を拭いながら鉄の塊から離れた。最も危険なのは夜間の業務で、疲れのせいでぼんやりしていると腕や脚がその中へ巻き込まれてしまうこともある。
 そういえば工場長には片腕が無かったし、先輩の一人にも片脚が無かった。
 裁断されるのはさぞや痛かろう――鋭利な切っ先は凶器にもなりうるのだと思い返しながら、帰宅のタイムカードを押し外へと出る。
 と、そこへ。

「おい、総司!」
「……チーフ」
 見れば、朝の手続き時に会って以来のチーフがぶんぶんと手を振っていた。あの豪腕に当たるのも、機械に巻き込まれるのとと同じくらいに痛そうだ。
 汚い作業着の埃を叩きつつ走り寄った総司に、男は「ほい」と封筒を差し出した。
 拓郎の有給関連のものだろう。
「受理されましたか?」
「工場長はあんましいい顔しなかったんだがな、頼み込んで受け取って貰った。長年の仲間にだって、権利なんかあったもんじゃねぇ……ま、中層の宿命だな」
「……ありがとうございます」
 総司は頭を下げ、そのまま俯く。工場長もまた中層階級の人間ではあるが、更に上から指示され自由に裁量出来ないに違いない。
 そもそも有給制度自体が名目上は『権利』でも実際は『恩恵』として受け取られているもの故、行使されることを好まない連中も多いのだ。実に損な役回りである。
 悪いことをしたとは思っていないが、このせいで養父やチーフ、工場長らに迷惑を掛けてしまったら――。
 今になって青くなった総司を、チーフは困惑した眼差しで見つめる。
「……こらこら、若者がそう鬱屈すんなっての」
「はい……」
「思い詰めると身体に毒だぜ? そうだ、一緒に五条街にでも出るか?」
 五条街。
『ここ』の東にある数少ない歓楽街の名に、総司は眉を顰めた。
「チーフは行くんですか?」
「ああ、他のエリア担当のチーフどもとな。たまには羽根伸ばさねぇとやってられねぇってこった!」
「……」
「最近は臨時の出費も特別無ぇからな、お前さんにも奢るぜ?」



 名前だけは「レストラン」やら「バー」などと誤魔化しているが、中身は賭博場や遊郭ばかり。悪質な所では莫大な額の利子を要求する金貸しものさばっているという始末だ。
 しかし、こういう場所が無くてはストレス発散の場が無い。
 歓楽街に勤める人間はほとんどが『下層』の住人――『最下層』の住人はあれ以上どんな地獄に住んでいるのだろう――であるし、よほど危険でアンダーグラウンドな店に引っ掛からない限りは楽しめるらしい。

 総司も「行ったことが無い」と言えば嘘になる。
 特別悪い印象を抱いた訳でも無く、ただそこにあるごてごてとしたいかがわしさに言葉にならない虚しさを感じただけだ。
 太陽を母としない灯りの下、這いつくばった人間達の何と浅ましいことか。
 正直に言えば、頼まれても行きたくない。



 口を閉ざしていると、チーフは訝しげに総司の顔を覗き込む。
 ひどく男臭い笑みが眼前に迫って――きたような感覚を覚え、総司は反射的に身を引いてしまう。
「……お、俺は、」
「うん?」
「用事が……あるんです。昔馴染みの連中と」
 嘘を吐いた訳でも無く本当のことを言っているだけのはずなのに、ぎくしゃくとした口調になってしまった。総司はそれを後悔したが、今更修正するのも気が引ける。
「また次の機会に誘って下さい。本当にすみません」
 相手が何か返す前に深く頭を下げて、後は釈明じみたお決まりの台詞。
 チーフには恩もあり、言葉の端々には優しさや気遣いを感じる。実父の起こした反乱の一件から総司の一挙一動に怯える上司が多い中、他の労働者達と分け隔てなく彼を認めよく面倒を見てくれる人だ。
 だが、労働者の典型とも言えるその性格に抵抗があるのは否めない。
 総司は、中層の中でも見下される立場とされ続ける『労働者』に甘んじてはいたくないと思っていた。

「ああ、そうか……。残念だな」
「……すみません」
 向こうが心底残念そうな表情を浮かべるので、胸が痛む。
 自分の信条を肯定することが、誰かの手を振り払うことになるとはこれまで考えてもみなかった。大人になって、何もかもが変わってしまったのだ。
(もう――子供ではいられない)
 逃げられない。止まらない。ただ、生き急ぐだけ。



 緊張を解したのは、昼にも聴いた明るい声。
「……おーい、総司ー!!」
 規則により原則的に脱ぐことを許されない軍服のまま、龍平が笑顔で走ってくる。ぎこちない格式張った挨拶をしないのは、総司に「嫌だ」と言われたからに違いない。もっとも、(律儀と言うべきか几帳面と言うべきか)「友人」らしい挨拶に戻るのは次に会った時一回だけなのであるが。
 とは言え体裁も気にせず満面の笑みで駆け寄ってくる『兵士』は、周囲から見ればさぞかし気味の悪いものだろう。
 規格外の男なのだ、色々な意味で。
「龍平……!」
「ういーっす、昼ぶりー」
 頭に花が生えんばかりに気の抜けた口ぶりで、彼はぶんぶんと手を振り息を切らすこと無くこちらへ駆け寄ってきた。
「ちゃーんと迎えに来てやったぜ」
 親指を立て手前に突き出す、不可解な仕草。初めての買い物を終えて「偉いだろう俺」と胸を張っている、微笑ましい小さな子供の映像が彼と重なる――要するに、少なくとも20歳の男がやる仕草では無いということだ。
「……お前なぁ、チーフもいるんだよ。馬鹿を晒すな」
「バッ、馬鹿だとっ!?」
「他に何があるんだ、馬鹿」
 だが、その気まずさの回避と現場の空気の緩和をもたらしてくれたのもやはり龍平だ。親友の無意識下の行動に、総司はやはり安堵を隠しきれずに微笑する。龍平は「馬鹿馬鹿って連呼するなよ」などとぶつくさ言っていたため、その変化に気付けなかったのだが。
 すると、横目でそれを見ていたチーフが総司の代わりとばかりに囃し立てる。
「そいつが『昔馴染みの連中』か? 『兵士』っぽく無ぇ奴だなぁ」
「よく言われるんスよー。いい男は辛いっすねぇ」
 龍平はその言葉を都合よく解釈(もとい改竄)し、大げさなほどに照れてみせた。軍帽を手ずから脱いで片手で回すと、そうして自身をからかったことのある総司への一種の仕返しのようにも思える。

 チーフは龍平をいたく気に入ったらしく、彼の背中を何度も叩いて「楽しい奴だなお前」と大笑いした。かたや龍平は、さしもの総司でも耐えかねる激励を「いえいえ」などと言いつつ平然と受け入れている。『兵士』らしいのは鍛えられた肉体ばかりだ。
 頭脳も性格も今なおのほほんとしていて、精神年齢の低さが窺われる。
「龍平って言ったか、面白ぇじゃねぇかお前。総司にもこれくらいの度量があればいいんだがなぁ」
「俺……そんなに度量の狭い男に見えますか?」
「もうちっと気楽になれってことだ。拓郎サンもそう思ってるぜ、きっと」
 総司が落ち込む前に、筋肉自慢の男は義父の話で以って先立った台詞を補う。
「そうだそうだ、おじさんに迷惑掛けんなよ」
 隣ではいつの間にか軍帽を被り直し、チーフに倣ってやや偉そうに頷いている龍平。そもそも育ての親のことを思いやれば二人の言わんとすることもよくわかる――のだが、親友の大儀そうな態度は少々癪に障った。
「ありがとうございます、チーフ。肝に銘じます」
「……え、俺には?」
 反撃代わりに、総司は隣り合う二人のうち先輩たる男にだけ深々と丁寧な礼をした。龍平のことは敢えて無視だ。
「ま、若いんだし人生これからだ。そんじゃーな、また明日!」
 男は夜空を仰ぎ、「今日は五条街で思いっきり騒ぐか」と呟きながら背を向けた。
 タイムカードを押し次々に散っていく仲間が家族の温もりに抱かれ帰宅していく様子を、本来は羨ましく思っているのだろうか。今なお独身のチーフはこちらに表情を見せないまま手を上に上げ、軽く振りながら去っていく。

「人生はこれから、か。……確かにそうだな」
 総司が一瞬頬を緩めると、龍平が再び親指を立てる。
「お互い頑張ろうな、総司! どっちが先に結婚出来るか……」
「馬鹿は黙れ」
 もはや龍平を切り捨てるのは、総司の日課(もっとも、ちょくちょく会えている訳では無いのだが)なのかもしれない。一つ下でも弟分には決して思えず、対等で気の置けない友。だからこそ容赦無く物を言えるし、それで許されるのだ。
 龍平は不機嫌と言うよりは不満げな様子で眉を吊り上げた。
「ま、また馬鹿って言ったっ! ああ、こんなことなら陽介さんと先に飲んでりゃ良かった……」
「凹むな凹むな。あれ、もう皆乾杯しちまったのか?」
 それは残念だ、と言い掛けると――相手は「いいや」と首を振る。
「そうじゃなくて。まぁ、酒は飲み始めてるけど」
「はぁ? 酒を飲み始めたなら、イコール宴会も始まったってことだろ?」
 当然と思われることを否と言われれば、誰だって違和感を覚えるものである。そこで重ねてどういう意味かと問おうとした総司に、彼はぼそりと言った。
 心底悔しそうな、だが苦笑をも交えた口ぶりで。
「陽介さんは『毒見』なんだってさ。ズリーよな、『幹事特権』だと」





『王将酒場』へと走ると、荻乃が店の扉を今にも開けようとしている所だった。
『奉公人』ゆえに抜け出してくるのは大変だったのだろうと、総司は推測する。陽介の言っていた「奥様」のことと関係しているに違いないが、今日の飲み会で少しでも何かしら吐き出してくれると良いのだが。
「おぎ……」
「オギ姉ーっ、良かった……どーにか来てくれたんだ!」
 龍平に先を越され、軽く舌打ちをする総司。空気の読めない男は嫌われるぞと負け惜しみを言った所で、彼女のことを「姉」としか認識していない龍平には何の影響も無い。
「あら、二人とも」
 扉から手を離しくるりと振り返ると、普段はきっちりとまとめられている長い髪が流麗に揺れる。見慣れない新鮮な魅力に、総司は目を瞠った。
 ――綺麗だ、と。
 今更言うまでも無い賛辞が、頭の中を悠長に巡る。

「やっぱり遅かったのね。タツは総司君のお迎え?」
「うん。コイツはそんなに喜んでくれなかったけど、絶対本音では狂喜乱舞してると思う」
「人の心を都合よく決めるな」
 本心は彼の推定通り「嬉しかった」で正しいが、総司はそこには触れなかった。改めて言葉にするとかえって気持ち悪い言葉もある、と言った所で親友は理解してくれまい。所詮は単純な男だ。
 総司は龍平から反論される前に、荻乃の代わりに扉を勢い良く開く。
「陽介さん、……只今着きました!」
 その時、店内の時計がきっかり八時を指した。





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2007.8.22  藍咲万寿