狂乱の薔薇
薄汚れた天井でぐるぐると回る空調をぼんやりと見つめて、俺はため息をつく。
ベッドに寝転がっても寝付けない。理由はまぁ、色々だ。
手には鞘に収まったダガー。馴染んだ感触は自分が確かにここに在ることを感じさせてくれるが、同時に気恥ずかしくもさせる。そう遠くないドアの向こうから聴こえる水音を敢えて意識しないようにしていたのに、それを現実のものと再認識せざるを得なくなるからだ。
「……青いなー、俺」
鞘から刀身を引き抜いて乾いた笑い声を上げる。情けなくも掠れているのは、緊張のせいだろうか。いっそこの腕に刃を当ててしまえば目も覚めるかもしれない。それはさぞかし痛かろう。
俺の武器はよく「変わっている」と言われる。おそらく、ダガーとナイフ――殺傷能力の低い刃の合わせ技が基本だからだ。組織に所属する大抵の連中が銃を好んで使っているせいもあり、そういった意味でも俺の存在は異質だった。
個人的には、今なおこの身が『名無し』なのはそこに理由があるのだと思っている。
通称を貰えないのは実力不足の証と言われるが、それは嘘だ。組織の首領
『ユピテル』は俺を嫌っているから、いつまでも昇格を許さない。むしろ、だからこそこんな現場に俺を連れてくる。
単なる敵の密売ルート潰しの掃討戦なら、『ヤヌス』か『アポロ』辺りを連れてきたほうがよほど事がすんなりと終わるだろうに。
(奴は、そこまでして俺を死なせたいのか?)
首領を「奴」と呼んだ、などと誰かに知れたら大変だ。よって心の中だけで毒づく。
この組織は、入ったが最後抜けられない。脱走は粛清、死して屍拾う者無し。表立った仲間の弔いさえ許さない姿勢は、裏社会の中でも外道中の外道だ。
たまらなくなって目を閉じた。水音は止まない。
(それでも……ここにしか居場所が無いんだ)
唯一存在価値を認めてくれる場所が、ここ。世界そのものは表と裏の境界が曖昧になるほど見事に腐りきってしまったけれども、それでもなお俺には「表」が似合わない。
陽の下で歩きたいとは絶対に思えない。
(おそらくは、彼女も)
壁の向こうできゅ、とシャワーの蛇口を閉める音が響いた気がした。
俺は今回の掃討作戦の単独特攻班として、彼女と組むことになった。つまり、件の『マルスの薔薇』と。
つい先日子どもじみた素朴な感情を自覚してしまったばかりの己には、待機並びに休息するために与えられた部屋まで一緒というのが少々やりきれない。ともあれ、もしも彼女の本性をもう少し知らないうちであれば、こんな美味しい状況も上手く生かせたかもしれない。
今となっては、それも無理だ。隣に寝るのは可愛い兎では無く凶暴な狼なのだから。
「あー、くそ」
ダガーを傍らに投げ捨て、頭を掻く。どこの純情青年だ俺は。
『この世に人を憎まない人はいないけど、人を愛せない人なんて幾らでもいるのよ』
以前恋愛に関して冷やかしてやった時、彼女はそう言った。
気持ちはわからなくも無い。世の中は不条理ばかりで、美しいもの・綺麗なものなんてほとんど無い。「誰もが存在価値を模索しながら足掻く世界」と言えば聴こえは良いが、要は「存在価値を見つけるため」にこんなことをやっている俺達のような連中もいる訳だからややこしい。
(本当、馬鹿馬鹿しいったら無ぇな)
内心で自嘲して、気分転換がてら煙草でも吸うか――と、ダガーを拾って起き上がろうとした瞬間だった。
「……したい」
「え?」
彼女の声がした。
慌ててシャワールームのあるほうへと目を向けると、そこにはショートパンツにタンクトップを合わせただけの女が一人。普段の服装であるTシャツ・ジーンズ姿に比べるとだいぶ肌の露出が高くて、思わず手に取っていた刀身を取り落としかける。
これは犯罪だ。しかも個人的にはかなり凶悪な。
「な、な……」
一瞬で自分の顔が真っ赤になるのがわかった。つい自己の焦りが先立ってしまい、『マルスの薔薇』の様子がおかしいことにはすぐに気付けない。
声の震えさえ止められないほどに、俺は動揺していたのだ。
「ど……うし、たんだよ」
「……たい、……したいの。あたし……あたし……」
「……マルスの、薔薇?」
だが、彼女が次に取った行動は意外なものだった。少なくとも、俺の小さくも淡い期待を完膚無きまでにぶち壊す程度には。
「あたし…………貴方を、殺したい!!」
叫ぶなり、彼女は間髪入れず躍りかかってきた。手には俺のものよりも更に一回り小ぶりなナイフが握られている。
「マルス!」
二つ名では無く通り名で呼んで、俺もまた覚醒する。
――殺される。
本能的にとてつもない殺気を理解して、素早くベッドから飛びのく。ダガーを再びすんなりと持ち直すことが出来たのは、ひとえに実地訓練の成果か。
無言で俺のいたベッドの毛布に突き立てられた刃が鈍く光る。
「落ち着け!! 何があった……マルス!?」
「殺したい、殺したい……殺したいの……あたし、もう駄目……!」
毛布やマットレスを切り裂きながら唸る彼女は、まるで鬼のようだった。大量の敵を前にした時でさえ常に冷静かつ冷徹なこの女が?
信じがたい光景だが、現在の彼女からは狂気しか感じられない。
まだ、その髪は濡れている。走るたび飛び散る水滴が、その身がつい先刻までシャワーを浴びていたことを思い起こさせ眩暈がしそうになる。
――いや、負けるな。ここで油断したら俺は死ぬ。
悔しいかな、色めいた雰囲気はどこにも無い。
この世界と同じく安っぽい部屋には、壁をじりじりと伝いながら隙を窺う男と、ベッドの上のものを裂くのに飽きいつでもそこから飛び出せるよう構える女がいるだけだ。
「俺は敵じゃない! 俺は仲間だ!!」
「殺さなきゃ……殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ……そうでもしなきゃ、あたしは……」
「っ、くそ……」
狂乱の声をそう長く上げ続けさせる訳にはいかないだろう。静かに潜伏していなくてはならないのに、これでは周囲に怪しまれる。
彼女は俺よりも遥かに強いだろうが、関係無い。一刻も早く『マルスの薔薇』を止めなくては。
一か八かの思いで、彼女より僅かに早く動いた。どちらも似たり寄ったりの武器を持っておりなおかつ相手のほうが素早いのであれば、あとは体格差で勝負するしか手が無い。
それでも女の最も得意な銃でのタイマン勝負で無い分、俺にも勝機はある。
左腕で顔を庇いつつ距離を詰め、次いでその箇所に訪れた強い衝撃に耐えダガーを右手で投げる。鞘に入ったままなのは、単に隙を突くための目くらましだからだ。
そこで黒い物体を反射的に避けた細くも筋肉質な脚を、低姿勢になるや否や強引に払った。
「……!?」
バランスを取り損ねた女は、はっと目を見開く。彼女のしなやかな動きを停止させんと全体重を掛けて縫い止めるのは、カーペットも無く剥き出しになった板の上。それでも相手が頭を打ち付けないよう、右腕を床と後頭部の間に滑り込ませるという判断は褒めて欲しい。
縺れ合った糸の如く、俺達は抱き合ったまま硬く冷たい床へと倒れ込んだ。
――髪から、雨の匂いがする。
抱き込んだ際に頬に当たった濡れるような感触に、ぼんやりとそんなことを思いながら。
「……ってぇ」
「あ……」
作戦成功。見下ろした先には普段のように平静を装おうとしながらも、どこか驚いたような表情をした彼女がいた。
「落ち着いたか?」
まともに攻撃を食らった左腕は熱かったが、余裕を残した笑みで問う。その直後に額から冷や汗が噴き出すのを感じて「しまった」と思いながらも、もはや後戻りは出来ない。偉ぶった仮面のままこの場を乗り切れるだろうか。
「ごめんな、さい」
彼女は握り締めていたナイフの柄からゆっくりと手を離した。切っ先は俺の腕の中に埋め込まれているから、もう動かない。
痺れた手を使いそれを無言で引き抜けば、ごぼ、と血が止め処無く流れる。
「……っ」
痛みを堪えて明かりの下で形状を確かめてみると、どうやら刃先が飛び出すタイプのサバイバルナイフと思われる。俺は自由の利く右手でパチンと白刃を仕舞い、ベッドの下に滑らせて飛ばす。どうせ床やベッドにも既に胡散臭い痕が残っているのだし、オーナーには金でも握らせて黙らせれば良い。
「貴方、」
結ばれていた赤い唇が開く。間近で見ても形の良い唇だった。
「黙ってろ。……このことは組織にも言うなよ」
「でも!」
「黙れ、絶対に言うな」
何も言わせてはいけないと思い、俺はじっと見上げてくる女を叱咤する。あの『マルスの薔薇』たる彼女に反論している自分は何と不思議な人間なのだと、遠い意識では違和感を覚えていた。
彼女から見たら、俺なんて未熟者も良い所だろうに。
「……どうせ、俺達しか……ここには……いな……い」
だが言い含めるのもそこそこに、強張っていた全身からどっと力が抜けるのを悟る。彼女の瞳からは今や狂気が抜け落ちていたから、自身の怪我のことも忘れて安堵してしまったのだ。
――生きてる。
――もういい、それだけで。
途端に眠くなってくる。いや、もう耐えられない。
「ちょっと……ねぇ、貴方……!?」
彼女が暴走したのは何故なんだとか、味方のはずの俺がどうして被害者なんだとか。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、精神的疲労と失血とでそれももはやどうでも良くなった。相手に覆い被さったまま、ゆっくりと瞳を閉じていく。
「……!」
絶句している『マルスの薔薇』なんてそう見られるもんじゃないな。
少し休んでまた起きたら、彼女の狼狽した様子を一笑してやろう。何、これくらい大した傷じゃない。
「貴方……待って、このまま寝るつもりなの!?」
「ああ」
それだけ返して、抵抗を続ける背へと血の付着した両腕を回した。ぬるりとした液体の気持ち悪さはあったが、硬直した女はさながら抱き枕のように思える。
「おやすみ、マルス……の……」
「……寝ないで、アレス……アレス!」
触れた肌は温かい。髪の冷たさは心地好い。
意識を手放す寸前に初めて本名を呼ばれてしまったことも、妙に照れ臭く嬉しかった。『名無し』の俺の本当の名前を、彼女は知っていてくれたのか。
さすがの俺もこの時ばかりは、先程見た『マルスの薔薇』の本性をすっかり忘れ――互いの存在価値が互いの中にあるような、ひたすらに愚かな幻想を錯覚していた。
ベッドに寝転がっても寝付けない。理由はまぁ、色々だ。
手には鞘に収まったダガー。馴染んだ感触は自分が確かにここに在ることを感じさせてくれるが、同時に気恥ずかしくもさせる。そう遠くないドアの向こうから聴こえる水音を敢えて意識しないようにしていたのに、それを現実のものと再認識せざるを得なくなるからだ。
「……青いなー、俺」
鞘から刀身を引き抜いて乾いた笑い声を上げる。情けなくも掠れているのは、緊張のせいだろうか。いっそこの腕に刃を当ててしまえば目も覚めるかもしれない。それはさぞかし痛かろう。
俺の武器はよく「変わっている」と言われる。おそらく、ダガーとナイフ――殺傷能力の低い刃の合わせ技が基本だからだ。組織に所属する大抵の連中が銃を好んで使っているせいもあり、そういった意味でも俺の存在は異質だった。
個人的には、今なおこの身が『名無し』なのはそこに理由があるのだと思っている。
通称を貰えないのは実力不足の証と言われるが、それは嘘だ。組織の
単なる敵の密売ルート潰しの掃討戦なら、『ヤヌス』か『アポロ』辺りを連れてきたほうがよほど事がすんなりと終わるだろうに。
(奴は、そこまでして俺を死なせたいのか?)
首領を「奴」と呼んだ、などと誰かに知れたら大変だ。よって心の中だけで毒づく。
この組織は、入ったが最後抜けられない。脱走は粛清、死して屍拾う者無し。表立った仲間の弔いさえ許さない姿勢は、裏社会の中でも外道中の外道だ。
たまらなくなって目を閉じた。水音は止まない。
(それでも……ここにしか居場所が無いんだ)
唯一存在価値を認めてくれる場所が、ここ。世界そのものは表と裏の境界が曖昧になるほど見事に腐りきってしまったけれども、それでもなお俺には「表」が似合わない。
陽の下で歩きたいとは絶対に思えない。
(おそらくは、彼女も)
壁の向こうできゅ、とシャワーの蛇口を閉める音が響いた気がした。
俺は今回の掃討作戦の単独特攻班として、彼女と組むことになった。つまり、件の『マルスの薔薇』と。
つい先日子どもじみた素朴な感情を自覚してしまったばかりの己には、待機並びに休息するために与えられた部屋まで一緒というのが少々やりきれない。ともあれ、もしも彼女の本性をもう少し知らないうちであれば、こんな美味しい状況も上手く生かせたかもしれない。
今となっては、それも無理だ。隣に寝るのは可愛い兎では無く凶暴な狼なのだから。
「あー、くそ」
ダガーを傍らに投げ捨て、頭を掻く。どこの純情青年だ俺は。
『この世に人を憎まない人はいないけど、人を愛せない人なんて幾らでもいるのよ』
以前恋愛に関して冷やかしてやった時、彼女はそう言った。
気持ちはわからなくも無い。世の中は不条理ばかりで、美しいもの・綺麗なものなんてほとんど無い。「誰もが存在価値を模索しながら足掻く世界」と言えば聴こえは良いが、要は「存在価値を見つけるため」にこんなことをやっている俺達のような連中もいる訳だからややこしい。
(本当、馬鹿馬鹿しいったら無ぇな)
内心で自嘲して、気分転換がてら煙草でも吸うか――と、ダガーを拾って起き上がろうとした瞬間だった。
「……したい」
「え?」
彼女の声がした。
慌ててシャワールームのあるほうへと目を向けると、そこにはショートパンツにタンクトップを合わせただけの女が一人。普段の服装であるTシャツ・ジーンズ姿に比べるとだいぶ肌の露出が高くて、思わず手に取っていた刀身を取り落としかける。
これは犯罪だ。しかも個人的にはかなり凶悪な。
「な、な……」
一瞬で自分の顔が真っ赤になるのがわかった。つい自己の焦りが先立ってしまい、『マルスの薔薇』の様子がおかしいことにはすぐに気付けない。
声の震えさえ止められないほどに、俺は動揺していたのだ。
「ど……うし、たんだよ」
「……たい、……したいの。あたし……あたし……」
「……マルスの、薔薇?」
だが、彼女が次に取った行動は意外なものだった。少なくとも、俺の小さくも淡い期待を完膚無きまでにぶち壊す程度には。
「あたし…………貴方を、殺したい!!」
叫ぶなり、彼女は間髪入れず躍りかかってきた。手には俺のものよりも更に一回り小ぶりなナイフが握られている。
「マルス!」
二つ名では無く通り名で呼んで、俺もまた覚醒する。
――殺される。
本能的にとてつもない殺気を理解して、素早くベッドから飛びのく。ダガーを再びすんなりと持ち直すことが出来たのは、ひとえに実地訓練の成果か。
無言で俺のいたベッドの毛布に突き立てられた刃が鈍く光る。
「落ち着け!! 何があった……マルス!?」
「殺したい、殺したい……殺したいの……あたし、もう駄目……!」
毛布やマットレスを切り裂きながら唸る彼女は、まるで鬼のようだった。大量の敵を前にした時でさえ常に冷静かつ冷徹なこの女が?
信じがたい光景だが、現在の彼女からは狂気しか感じられない。
まだ、その髪は濡れている。走るたび飛び散る水滴が、その身がつい先刻までシャワーを浴びていたことを思い起こさせ眩暈がしそうになる。
――いや、負けるな。ここで油断したら俺は死ぬ。
悔しいかな、色めいた雰囲気はどこにも無い。
この世界と同じく安っぽい部屋には、壁をじりじりと伝いながら隙を窺う男と、ベッドの上のものを裂くのに飽きいつでもそこから飛び出せるよう構える女がいるだけだ。
「俺は敵じゃない! 俺は仲間だ!!」
「殺さなきゃ……殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ……そうでもしなきゃ、あたしは……」
「っ、くそ……」
狂乱の声をそう長く上げ続けさせる訳にはいかないだろう。静かに潜伏していなくてはならないのに、これでは周囲に怪しまれる。
彼女は俺よりも遥かに強いだろうが、関係無い。一刻も早く『マルスの薔薇』を止めなくては。
一か八かの思いで、彼女より僅かに早く動いた。どちらも似たり寄ったりの武器を持っておりなおかつ相手のほうが素早いのであれば、あとは体格差で勝負するしか手が無い。
それでも女の最も得意な銃でのタイマン勝負で無い分、俺にも勝機はある。
左腕で顔を庇いつつ距離を詰め、次いでその箇所に訪れた強い衝撃に耐えダガーを右手で投げる。鞘に入ったままなのは、単に隙を突くための目くらましだからだ。
そこで黒い物体を反射的に避けた細くも筋肉質な脚を、低姿勢になるや否や強引に払った。
「……!?」
バランスを取り損ねた女は、はっと目を見開く。彼女のしなやかな動きを停止させんと全体重を掛けて縫い止めるのは、カーペットも無く剥き出しになった板の上。それでも相手が頭を打ち付けないよう、右腕を床と後頭部の間に滑り込ませるという判断は褒めて欲しい。
縺れ合った糸の如く、俺達は抱き合ったまま硬く冷たい床へと倒れ込んだ。
――髪から、雨の匂いがする。
抱き込んだ際に頬に当たった濡れるような感触に、ぼんやりとそんなことを思いながら。
「……ってぇ」
「あ……」
作戦成功。見下ろした先には普段のように平静を装おうとしながらも、どこか驚いたような表情をした彼女がいた。
「落ち着いたか?」
まともに攻撃を食らった左腕は熱かったが、余裕を残した笑みで問う。その直後に額から冷や汗が噴き出すのを感じて「しまった」と思いながらも、もはや後戻りは出来ない。偉ぶった仮面のままこの場を乗り切れるだろうか。
「ごめんな、さい」
彼女は握り締めていたナイフの柄からゆっくりと手を離した。切っ先は俺の腕の中に埋め込まれているから、もう動かない。
痺れた手を使いそれを無言で引き抜けば、ごぼ、と血が止め処無く流れる。
「……っ」
痛みを堪えて明かりの下で形状を確かめてみると、どうやら刃先が飛び出すタイプのサバイバルナイフと思われる。俺は自由の利く右手でパチンと白刃を仕舞い、ベッドの下に滑らせて飛ばす。どうせ床やベッドにも既に胡散臭い痕が残っているのだし、オーナーには金でも握らせて黙らせれば良い。
「貴方、」
結ばれていた赤い唇が開く。間近で見ても形の良い唇だった。
「黙ってろ。……このことは組織にも言うなよ」
「でも!」
「黙れ、絶対に言うな」
何も言わせてはいけないと思い、俺はじっと見上げてくる女を叱咤する。あの『マルスの薔薇』たる彼女に反論している自分は何と不思議な人間なのだと、遠い意識では違和感を覚えていた。
彼女から見たら、俺なんて未熟者も良い所だろうに。
「……どうせ、俺達しか……ここには……いな……い」
だが言い含めるのもそこそこに、強張っていた全身からどっと力が抜けるのを悟る。彼女の瞳からは今や狂気が抜け落ちていたから、自身の怪我のことも忘れて安堵してしまったのだ。
――生きてる。
――もういい、それだけで。
途端に眠くなってくる。いや、もう耐えられない。
「ちょっと……ねぇ、貴方……!?」
彼女が暴走したのは何故なんだとか、味方のはずの俺がどうして被害者なんだとか。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、精神的疲労と失血とでそれももはやどうでも良くなった。相手に覆い被さったまま、ゆっくりと瞳を閉じていく。
「……!」
絶句している『マルスの薔薇』なんてそう見られるもんじゃないな。
少し休んでまた起きたら、彼女の狼狽した様子を一笑してやろう。何、これくらい大した傷じゃない。
「貴方……待って、このまま寝るつもりなの!?」
「ああ」
それだけ返して、抵抗を続ける背へと血の付着した両腕を回した。ぬるりとした液体の気持ち悪さはあったが、硬直した女はさながら抱き枕のように思える。
「おやすみ、マルス……の……」
「……寝ないで、アレス……アレス!」
触れた肌は温かい。髪の冷たさは心地好い。
意識を手放す寸前に初めて本名を呼ばれてしまったことも、妙に照れ臭く嬉しかった。『名無し』の俺の本当の名前を、彼女は知っていてくれたのか。
さすがの俺もこの時ばかりは、先程見た『マルスの薔薇』の本性をすっかり忘れ――互いの存在価値が互いの中にあるような、ひたすらに愚かな幻想を錯覚していた。