クラウン・シャドウ
※競作小説企画【Crown】:第一回「王冠」参加作品※
公国にようやく訪れた春を祝う、一年で最大のフェスティバル。今年はその最終日に、城下の広場を使い戴冠式も行われる。
温かな気候に穏やかな空気。
血生臭い戦争の気配も薄れたこの時期は、新しく国を担う王を迎えるに相応しい。
先代の国王が亡くなって三年、機は熟したと近臣達は判断したのである。
とは言え、事が予想通り容易く進むことは無かった。
「大変です……王が、王が控えの間にいらっしゃいません!」
「落ち着け!! あの足では、そう遠くには……」
「一刻も早くお連れしろ!!」
「困ったものだな。ただでさえ、祭り初日から不都合が生じているというのに」
「……急ぐんだ、式典の開始は近いぞ!」
そう――――即位を間近に控えた新国王は、お付きの侍女が目を離した隙に逃げ出してしまったのだ。
赤、緑、青、白、黄。
街に無限かつ無尽蔵に溢れる色彩は鮮やかで、人々の凍えていた心を解しては和ませてくれる。
バルーン、クラッカー、オーナメント、シャンパン。
賑やかなアイテムの飾られた空間に降り注ぐ光は、まるで祝福のシャワーのよう。
王家専属の楽団もこの日ばかりは民衆のために軽快な音色を奏で、その気持ちまでも高揚させた。
「……はぁっ、はぁっ……」
暖かな風を受けながらその少年は息を切らし、人込みを掻き分けては必死の形相で走っていた。
「はぁ、っ……もう……あ、ごめんなさいっ!」
誰かの肘が当たる度に謝る様は、どこか世間慣れしていない。
正体を隠すため髪を覆った布も幾度と無く取れそうになり、危うく外れかけた所で直すという行為が既に七、八回は行われている。
そもそも、いちいち立ち止まって長話をする人々のお陰で現在のメインストリートは大混雑だ。露店が間隔無く並んでいるせいもあり、白い石畳を敷き詰めた道の幅も狭くなってひどく窮屈である。
だが、少年にそんな事実は関係無い。ただひたすらに焦った表情で、小さな身体を前へ前へと進めていくばかり。
「急がなきゃ、急がなきゃ……!!」
身体と同じく小さな口からは、忙しない言葉が零れていく。
――ドン。
「え?」
何の前触れも無く、少年の顔は「何か」に突き当たった。
そして瞬間、祭りの喧騒がどこかに吹き飛んでしまったように感じる。続けて肌に当たった柔らかな感触と、鼻腔をくすぐってくる太陽の匂い。
「……あの、……君?」
「ごっ、ごめんなさいっ!!」
相手の声が落ちてくるのと、少年が反射的に頭を下げ謝るのとはほぼ同時のことだった。
「僕……ちゃんと前を見てませんでした! 急いでたんです、すみません!!」
四の五の言わせる前に捲くし立て、それからようやく首をもたげる。それでもなお目を逸らしてしまうのは、他人と視線を合わせたくなかったからだ。
「えっと……その、それじゃ……」
少し布からはみ出た珍しいエンジ色――それが少年の髪の色だ――を掌で押さえ、すぐ俯いて立ち去ろうとする。
急いで、あそこへ行かなくては。
「……待って下さい」
ところが、相手はそれを許さなかった。
逃げるように己から離れようとした少年の手首を軽く掴み制止したのである。
「!!」
「……申し訳ありません、怯えさせてしまいましたか?」
「あ……」
少年が再度見上げた先にあったのは、フェスティバルには欠かせない道化師の姿。赤と黄と白を練り込んだ色も形も奇抜な衣装を身に纏い、同系統の帽子を頭に被り、右頬から目の周りにかけては青いペインティングが施されている。
「私は平気です。……君のほうが、不安だ」
しかしメイクの奥にあるのは、外見の奇抜さと対照的な優しい瞳であった。
今なお戸惑う少年の手を引き、道化師の格好をした人物は石造りの階段まで辿り着く。メインストリートを僅かに外れているせいか妙に静かではあったが、先程まで喧しさに慣れていた分だけそれもなかなか心地良い。
三段目まで上ると、道化師はふと足を止めた。
少年の困惑をよそに冷たい石の上へと腰を下ろし、隣に座るよう促す。
「君も座りませんか?」
「え、えっと……」
「心配しないで下さい。別に、人攫いなんかじゃありませんから」
そういうことでは無いのだ――言い掛けようかとも思ったものの、少年は諦めて口を閉ざす。
粗相をしたのは自分なのだから、相手を突き放すのも申し訳無い。ほんの少しだけ付き合ってから暇乞いをしよう、と考えたのである。
「やはり、驚かせてしまいましたね。……これ、せめてものお詫びです」
「……?」
道化師が苦笑して差し出したのは、色とりどりの包装紙に包まれたたくさんのキャンディだった。
数秒迷ってから片方の手の平で受け取ろうとすると、
「その手だけじゃ足りません」
と、もう片方の手も出すよう言われてしまう。やむなく両手を広げた所で、手の中いっぱいに意外な重みと甘い香りが集約する。
「うわぁ……!」
嬉しさのあまり、少年は思わず大きな声を上げてしまった。
こんなものはそうそう見たことが無い。
鼻を近付ければ砂糖と風味付けのエッセンスとが入り混じって、柔らかく嗅覚を刺激した。
「気に入りました?」
「うん!!」
風変わりなものを一通り眺めて生きてきたはずが、未だ無知な自分がここにはいる。キャンディだけで無く新たな経験をも貰ったようで、少年の頬には子どもらしいえくぼが覗く。
「それは良かった。ちょうど良い入れ物をあげましょう、これで持ち帰って下さいね」
手にしていた鞄の中から、道化師は小さな布袋をすっと取り出す。
「……ありがとう」
はにかんだ後に少年は手を伸ばし、淡い緑色の袋の中に山のようなキャンディを注ぎ入れた。
日陰にいるのに、この道化師からはやはり太陽にも近しい匂いがする――そんなことを考えながら。
階段の隅に座り込む、道化師と少年。
周囲から見ればあまりに不釣合いな組み合わせだろう。もっとも今日の騒ぎの中では、大した問題にはならないに違いないが。
「随分とお急ぎのようでしたが……何か、ありましたか?」
道化師は尋ねる。
すると少年の肩が揺れ、一度綻んだはずの口元が再びきゅっと閉じられた。
「言えませんか? 無理をしろとは言いませんが」
「……ううん」
躊躇いがちに重ねられる高すぎも低すぎもしないトーンが耳に馴染み、まるで楽団のチェロのようだと少年は思う。しばらくしてその声色に導かれるように、おずおずと返事を紡ぎ出した。
「用事が……あるんだ。みんなのために必要な、大切な用事がね」
「どんな用事です?」
「……言えない。言ったら絶対、びっくりするから」
力無く首を振ると、不快な表情一つせず「そうですか」と相槌を打つ道化師。まさかその隠された意味合いに気付いたとは考えにくいが、思う所はあったのだろう。
貰ったばかりの袋を握り締め、少年はぼそりと呟いた。
「最初はちゃんと、そこで時間まで待ってようって思ってた。……思ってた、けど……怖くなって、飛び出してきちゃったんだ」
「……それで、時間が迫ったから慌てて戻ろう……と?」
道化師の問いに頷き、白い指先を震わせる少年。
「僕が戻らなきゃ始まらないのに……みんなに、迷惑掛けちゃう」
――瞼を閉じれば、『それ』に失敗する姿しか思い浮かばない。
――数多の観衆に見守られながら、やり直しがきかないほどのミスを犯してしまう自分。
――笑われて、呆れられて。
――それから……
「……う、っく……」
いつしか、少年は泣き出してしまった。
手順は頭に入っていても、常に恐怖が先立つのだ。「とんでもない間違いに狼狽する自分」のイメージは拭えず、気がかりな思いを振り捨てることも出来ない。
「君…………もしかして……」
「……僕、出来ることなら貴方になりたいよ!」
少年は自身の頭をくるんでいた布が解け掛けているのにも気付かず、思わず頭を振って吐き出していた。
「キャンディ一つで誰かを笑顔に出来る、……そんなゆとりが、僕も欲しい……!!」
幼い容貌を覆うようにパラパラとエンジ色の髪が散る。
その途端、それまで彼らに目もくれなかった陽気な民衆が――少し前までの穏やかな空気を一変させ、二人の変わった連れ合いにさっと意識を向ける。
誰かが少年を指差して言った。
「……ちょっと見ろよ。……あの、エンジ色の髪……!!」
…………見つかって、しまった。
萎縮した少年は、咄嗟に立ち上がり道化師の背後に隠れた。一歩出遅れた背中の主は座ったまま、パニック寸前の表情で固まっている少年を振り返る。
「やっぱり、君は……」
「嫌だ、嫌だ! 僕は怖い……貴方みたいに、強くない……!」
そうこうしているうちにも、皆の視線はより二人に集中していく。
「こんな所に……」
「いいのか? だってエンジの……」
「まさか、驚いた……」
己に向けられる、数え切れない好奇心と畏敬の念。
少年は道化師の装束の袖を掴んで、それらにどうにか耐えようと我慢していた。
――あの冠は受けられない。
――あの地位には立てやしない。
――笑われて、呆れられて。
――それから……
「気をしっかり持ちなさい……『クラウン・シャドウ』!」
騒がしい観衆をぴたりと黙らせる、怒声――。
その声の主が振り返ってこちらを見ている道化師だと少年が気付くのに、しばらく掛かった。五度目の瞬きを終えてから「え?」と拍子抜けした声を上げ、自身の役職名を正確に並べてみせた相手の瞳を覗き込む。
「……貴方、は……?」
「私だって怖いんですよ。ちっとも万能では無いし、不完全です」
少年の当惑が込められた問い掛けを制し、道化師は言う。
「だから、逃げてしまった……祭りが始まると共に行方不明になった『クラウン』を捜しに行くんだ、と自分に都合の良い言い訳をして」
一息にそこまで言うと、頬のペインティングを手の甲で強く拭う。次いで帽子を取れば、一介の道化師には相応しくない艶やかな長い髪が波打った。
そして最後に脱ぎ捨てられる、道化師の衣装。
「……!!」
「でも……それでは、いけないんです……!」
息を呑んだのは、おそらく場にいた者全員であったのだろう。
偽りの道化師の皮から解き放たれたのは、青い薄手のドレスを纏った――この国で最も敬われるはずの、娘。
「わ……我が国の、王女……」
「そんな……戴冠式は目前だぞ?」
「なるほど、だから『クラウン』と一緒に……」
彼女は何をして良いものか迷っている民衆を見回し、言う。
「……ここから、戴冠を行う広場へ直接向かいます。申し訳ありませんが、道を開けては下さいませんか?」
すらりとした背と、意思の強さを感じさせる瞳。
王女が『王』へと変わり行く道のりを止めようとする者などいるはずも無く、人々は素早く二手に割れた。そう遠くない所には既に準備の整った広場と、青いドレスという目印を見つけた従者達が泣きそうな顔でこちらへと駆け寄ってくるのが把握出来る。
「思ったより早くばれてしまいましたね……まぁ、結果的に『クラウン』を無事見つけ出したんですから、式典にも支障は無いでしょう」
少し残念そうに呟く、今まであまり表には出てこなかった次期国王の真実の姿。それを目の当たりにした国民は各々驚きつつも、心のどこかで公国の将来の安泰を感じ取っていた。
確かに、破天荒で不思議な人物だ。
けれども生まれながらに持つ温かな空気は、偉大なる先代のものと何と似ていることか……と。
かたや少年は道化師を、いや道化師に身をやつしていた娘を見上げたまま硬直していた。
「あ……貴方……女性、だったんですか……!」
「ああ、やっぱりわかってはいなかったんですか。私は見ての通り長身ですし、年齢の割に凹凸が無いですから仕方ありませんけど」
「ご、ごめんなさい……王は女性とお聞きして、それで……」
だが思い返せば、初めて会った時にぶつかった柔らかさは明らかに女性特有のものだった。自分がひどく恥ずかしいことを仕出かしたのだと悟り、真っ赤になった少年の視線はおろおろと宙を泳ぐ。
「……責任、取って下さいね」
律儀に鞄の中へと道化師装束一式をしまってから、彼女は「してやったり」と言わんばかりに腰へと手を当てる。
少年がこれまで聞かされてきた『王』の理想像はあっという間に脆くも崩れていったが、悪い印象は無い。むしろ、身に抱えていた重荷もこの王とであれば分け合っていけるに違いないと確信を持つ。
ひとまず自分の額に手を当て、少年は落ち着こうと努力する。
「頑張って、責任、取ります……」
娘はさもおかしそうにくすくすと笑って、百面相を続ける少年に手を差し伸べてきた。
「君がいなければ、私は『王』にはなり得ないんです。……さぁ、一緒に冠を受けましょう?」
紅潮したため余計に幼くあどけない顔を、優しい瞳でもって見据えた上で。
頬には青く道化師のメイクの名残があると言うのに、しなやかな身体からは誰にも真似出来ない気高さが感じられる。逃げ出してしまうほどの恐怖や不安は薄れ、代わりに彼女と邂逅できた喜びが胸の中へ満ちていく。
「寂しい思いをさせましたね。……でも、君のような『クラウン』に出会えるとは……私は、嬉しいです」
「……僕も……嬉しいよ。貴方のような王に恵まれて」
煌いたエンジ色は、まさに太陽の色。
その笑顔に魅せられるままに微笑み、少年は次期国王の手を迷いなく握った。
その国では、戴冠式において二人の人間が冠を戴く。
一人は『王』。
――国を守り、慈しむ者。
もう一人は『クラウン・シャドウ』。
――『王冠の影』の名の示す通り、王に生涯付き従う者。
特異なエンジ色の髪を持って生まれた者が選ばれ、その者は戴冠式まで王とは引き離されて育つ。やがてその即位と共に側近となり、影として支えとして王を守る『冠』の役目を果たすのである。
公国を担う、一対の冠。
『クラウン・シャドウ』が常に傍に在ってこそ、王は王足り得るのだという。
温かな気候に穏やかな空気。
血生臭い戦争の気配も薄れたこの時期は、新しく国を担う王を迎えるに相応しい。
先代の国王が亡くなって三年、機は熟したと近臣達は判断したのである。
とは言え、事が予想通り容易く進むことは無かった。
「大変です……王が、王が控えの間にいらっしゃいません!」
「落ち着け!! あの足では、そう遠くには……」
「一刻も早くお連れしろ!!」
「困ったものだな。ただでさえ、祭り初日から不都合が生じているというのに」
「……急ぐんだ、式典の開始は近いぞ!」
そう――――即位を間近に控えた新国王は、お付きの侍女が目を離した隙に逃げ出してしまったのだ。
赤、緑、青、白、黄。
街に無限かつ無尽蔵に溢れる色彩は鮮やかで、人々の凍えていた心を解しては和ませてくれる。
バルーン、クラッカー、オーナメント、シャンパン。
賑やかなアイテムの飾られた空間に降り注ぐ光は、まるで祝福のシャワーのよう。
王家専属の楽団もこの日ばかりは民衆のために軽快な音色を奏で、その気持ちまでも高揚させた。
「……はぁっ、はぁっ……」
暖かな風を受けながらその少年は息を切らし、人込みを掻き分けては必死の形相で走っていた。
「はぁ、っ……もう……あ、ごめんなさいっ!」
誰かの肘が当たる度に謝る様は、どこか世間慣れしていない。
正体を隠すため髪を覆った布も幾度と無く取れそうになり、危うく外れかけた所で直すという行為が既に七、八回は行われている。
そもそも、いちいち立ち止まって長話をする人々のお陰で現在のメインストリートは大混雑だ。露店が間隔無く並んでいるせいもあり、白い石畳を敷き詰めた道の幅も狭くなってひどく窮屈である。
だが、少年にそんな事実は関係無い。ただひたすらに焦った表情で、小さな身体を前へ前へと進めていくばかり。
「急がなきゃ、急がなきゃ……!!」
身体と同じく小さな口からは、忙しない言葉が零れていく。
――ドン。
「え?」
何の前触れも無く、少年の顔は「何か」に突き当たった。
そして瞬間、祭りの喧騒がどこかに吹き飛んでしまったように感じる。続けて肌に当たった柔らかな感触と、鼻腔をくすぐってくる太陽の匂い。
「……あの、……君?」
「ごっ、ごめんなさいっ!!」
相手の声が落ちてくるのと、少年が反射的に頭を下げ謝るのとはほぼ同時のことだった。
「僕……ちゃんと前を見てませんでした! 急いでたんです、すみません!!」
四の五の言わせる前に捲くし立て、それからようやく首をもたげる。それでもなお目を逸らしてしまうのは、他人と視線を合わせたくなかったからだ。
「えっと……その、それじゃ……」
少し布からはみ出た珍しいエンジ色――それが少年の髪の色だ――を掌で押さえ、すぐ俯いて立ち去ろうとする。
急いで、あそこへ行かなくては。
「……待って下さい」
ところが、相手はそれを許さなかった。
逃げるように己から離れようとした少年の手首を軽く掴み制止したのである。
「!!」
「……申し訳ありません、怯えさせてしまいましたか?」
「あ……」
少年が再度見上げた先にあったのは、フェスティバルには欠かせない道化師の姿。赤と黄と白を練り込んだ色も形も奇抜な衣装を身に纏い、同系統の帽子を頭に被り、右頬から目の周りにかけては青いペインティングが施されている。
「私は平気です。……君のほうが、不安だ」
しかしメイクの奥にあるのは、外見の奇抜さと対照的な優しい瞳であった。
今なお戸惑う少年の手を引き、道化師の格好をした人物は石造りの階段まで辿り着く。メインストリートを僅かに外れているせいか妙に静かではあったが、先程まで喧しさに慣れていた分だけそれもなかなか心地良い。
三段目まで上ると、道化師はふと足を止めた。
少年の困惑をよそに冷たい石の上へと腰を下ろし、隣に座るよう促す。
「君も座りませんか?」
「え、えっと……」
「心配しないで下さい。別に、人攫いなんかじゃありませんから」
そういうことでは無いのだ――言い掛けようかとも思ったものの、少年は諦めて口を閉ざす。
粗相をしたのは自分なのだから、相手を突き放すのも申し訳無い。ほんの少しだけ付き合ってから暇乞いをしよう、と考えたのである。
「やはり、驚かせてしまいましたね。……これ、せめてものお詫びです」
「……?」
道化師が苦笑して差し出したのは、色とりどりの包装紙に包まれたたくさんのキャンディだった。
数秒迷ってから片方の手の平で受け取ろうとすると、
「その手だけじゃ足りません」
と、もう片方の手も出すよう言われてしまう。やむなく両手を広げた所で、手の中いっぱいに意外な重みと甘い香りが集約する。
「うわぁ……!」
嬉しさのあまり、少年は思わず大きな声を上げてしまった。
こんなものはそうそう見たことが無い。
鼻を近付ければ砂糖と風味付けのエッセンスとが入り混じって、柔らかく嗅覚を刺激した。
「気に入りました?」
「うん!!」
風変わりなものを一通り眺めて生きてきたはずが、未だ無知な自分がここにはいる。キャンディだけで無く新たな経験をも貰ったようで、少年の頬には子どもらしいえくぼが覗く。
「それは良かった。ちょうど良い入れ物をあげましょう、これで持ち帰って下さいね」
手にしていた鞄の中から、道化師は小さな布袋をすっと取り出す。
「……ありがとう」
はにかんだ後に少年は手を伸ばし、淡い緑色の袋の中に山のようなキャンディを注ぎ入れた。
日陰にいるのに、この道化師からはやはり太陽にも近しい匂いがする――そんなことを考えながら。
階段の隅に座り込む、道化師と少年。
周囲から見ればあまりに不釣合いな組み合わせだろう。もっとも今日の騒ぎの中では、大した問題にはならないに違いないが。
「随分とお急ぎのようでしたが……何か、ありましたか?」
道化師は尋ねる。
すると少年の肩が揺れ、一度綻んだはずの口元が再びきゅっと閉じられた。
「言えませんか? 無理をしろとは言いませんが」
「……ううん」
躊躇いがちに重ねられる高すぎも低すぎもしないトーンが耳に馴染み、まるで楽団のチェロのようだと少年は思う。しばらくしてその声色に導かれるように、おずおずと返事を紡ぎ出した。
「用事が……あるんだ。みんなのために必要な、大切な用事がね」
「どんな用事です?」
「……言えない。言ったら絶対、びっくりするから」
力無く首を振ると、不快な表情一つせず「そうですか」と相槌を打つ道化師。まさかその隠された意味合いに気付いたとは考えにくいが、思う所はあったのだろう。
貰ったばかりの袋を握り締め、少年はぼそりと呟いた。
「最初はちゃんと、そこで時間まで待ってようって思ってた。……思ってた、けど……怖くなって、飛び出してきちゃったんだ」
「……それで、時間が迫ったから慌てて戻ろう……と?」
道化師の問いに頷き、白い指先を震わせる少年。
「僕が戻らなきゃ始まらないのに……みんなに、迷惑掛けちゃう」
――瞼を閉じれば、『それ』に失敗する姿しか思い浮かばない。
――数多の観衆に見守られながら、やり直しがきかないほどのミスを犯してしまう自分。
――笑われて、呆れられて。
――それから……
「……う、っく……」
いつしか、少年は泣き出してしまった。
手順は頭に入っていても、常に恐怖が先立つのだ。「とんでもない間違いに狼狽する自分」のイメージは拭えず、気がかりな思いを振り捨てることも出来ない。
「君…………もしかして……」
「……僕、出来ることなら貴方になりたいよ!」
少年は自身の頭をくるんでいた布が解け掛けているのにも気付かず、思わず頭を振って吐き出していた。
「キャンディ一つで誰かを笑顔に出来る、……そんなゆとりが、僕も欲しい……!!」
幼い容貌を覆うようにパラパラとエンジ色の髪が散る。
その途端、それまで彼らに目もくれなかった陽気な民衆が――少し前までの穏やかな空気を一変させ、二人の変わった連れ合いにさっと意識を向ける。
誰かが少年を指差して言った。
「……ちょっと見ろよ。……あの、エンジ色の髪……!!」
…………見つかって、しまった。
萎縮した少年は、咄嗟に立ち上がり道化師の背後に隠れた。一歩出遅れた背中の主は座ったまま、パニック寸前の表情で固まっている少年を振り返る。
「やっぱり、君は……」
「嫌だ、嫌だ! 僕は怖い……貴方みたいに、強くない……!」
そうこうしているうちにも、皆の視線はより二人に集中していく。
「こんな所に……」
「いいのか? だってエンジの……」
「まさか、驚いた……」
己に向けられる、数え切れない好奇心と畏敬の念。
少年は道化師の装束の袖を掴んで、それらにどうにか耐えようと我慢していた。
――あの冠は受けられない。
――あの地位には立てやしない。
――笑われて、呆れられて。
――それから……
「気をしっかり持ちなさい……『クラウン・シャドウ』!」
騒がしい観衆をぴたりと黙らせる、怒声――。
その声の主が振り返ってこちらを見ている道化師だと少年が気付くのに、しばらく掛かった。五度目の瞬きを終えてから「え?」と拍子抜けした声を上げ、自身の役職名を正確に並べてみせた相手の瞳を覗き込む。
「……貴方、は……?」
「私だって怖いんですよ。ちっとも万能では無いし、不完全です」
少年の当惑が込められた問い掛けを制し、道化師は言う。
「だから、逃げてしまった……祭りが始まると共に行方不明になった『クラウン』を捜しに行くんだ、と自分に都合の良い言い訳をして」
一息にそこまで言うと、頬のペインティングを手の甲で強く拭う。次いで帽子を取れば、一介の道化師には相応しくない艶やかな長い髪が波打った。
そして最後に脱ぎ捨てられる、道化師の衣装。
「……!!」
「でも……それでは、いけないんです……!」
息を呑んだのは、おそらく場にいた者全員であったのだろう。
偽りの道化師の皮から解き放たれたのは、青い薄手のドレスを纏った――この国で最も敬われるはずの、娘。
「わ……我が国の、王女……」
「そんな……戴冠式は目前だぞ?」
「なるほど、だから『クラウン』と一緒に……」
彼女は何をして良いものか迷っている民衆を見回し、言う。
「……ここから、戴冠を行う広場へ直接向かいます。申し訳ありませんが、道を開けては下さいませんか?」
すらりとした背と、意思の強さを感じさせる瞳。
王女が『王』へと変わり行く道のりを止めようとする者などいるはずも無く、人々は素早く二手に割れた。そう遠くない所には既に準備の整った広場と、青いドレスという目印を見つけた従者達が泣きそうな顔でこちらへと駆け寄ってくるのが把握出来る。
「思ったより早くばれてしまいましたね……まぁ、結果的に『クラウン』を無事見つけ出したんですから、式典にも支障は無いでしょう」
少し残念そうに呟く、今まであまり表には出てこなかった次期国王の真実の姿。それを目の当たりにした国民は各々驚きつつも、心のどこかで公国の将来の安泰を感じ取っていた。
確かに、破天荒で不思議な人物だ。
けれども生まれながらに持つ温かな空気は、偉大なる先代のものと何と似ていることか……と。
かたや少年は道化師を、いや道化師に身をやつしていた娘を見上げたまま硬直していた。
「あ……貴方……女性、だったんですか……!」
「ああ、やっぱりわかってはいなかったんですか。私は見ての通り長身ですし、年齢の割に凹凸が無いですから仕方ありませんけど」
「ご、ごめんなさい……王は女性とお聞きして、それで……」
だが思い返せば、初めて会った時にぶつかった柔らかさは明らかに女性特有のものだった。自分がひどく恥ずかしいことを仕出かしたのだと悟り、真っ赤になった少年の視線はおろおろと宙を泳ぐ。
「……責任、取って下さいね」
律儀に鞄の中へと道化師装束一式をしまってから、彼女は「してやったり」と言わんばかりに腰へと手を当てる。
少年がこれまで聞かされてきた『王』の理想像はあっという間に脆くも崩れていったが、悪い印象は無い。むしろ、身に抱えていた重荷もこの王とであれば分け合っていけるに違いないと確信を持つ。
ひとまず自分の額に手を当て、少年は落ち着こうと努力する。
「頑張って、責任、取ります……」
娘はさもおかしそうにくすくすと笑って、百面相を続ける少年に手を差し伸べてきた。
「君がいなければ、私は『王』にはなり得ないんです。……さぁ、一緒に冠を受けましょう?」
紅潮したため余計に幼くあどけない顔を、優しい瞳でもって見据えた上で。
頬には青く道化師のメイクの名残があると言うのに、しなやかな身体からは誰にも真似出来ない気高さが感じられる。逃げ出してしまうほどの恐怖や不安は薄れ、代わりに彼女と邂逅できた喜びが胸の中へ満ちていく。
「寂しい思いをさせましたね。……でも、君のような『クラウン』に出会えるとは……私は、嬉しいです」
「……僕も……嬉しいよ。貴方のような王に恵まれて」
煌いたエンジ色は、まさに太陽の色。
その笑顔に魅せられるままに微笑み、少年は次期国王の手を迷いなく握った。
その国では、戴冠式において二人の人間が冠を戴く。
一人は『王』。
――国を守り、慈しむ者。
もう一人は『クラウン・シャドウ』。
――『王冠の影』の名の示す通り、王に生涯付き従う者。
特異なエンジ色の髪を持って生まれた者が選ばれ、その者は戴冠式まで王とは引き離されて育つ。やがてその即位と共に側近となり、影として支えとして王を守る『冠』の役目を果たすのである。
公国を担う、一対の冠。
『クラウン・シャドウ』が常に傍に在ってこそ、王は王足り得るのだという。